夜は、少しだけ遅れてくる。
窓の外が暗くなる前に、部屋のほうが先に静かになる日がある。
道路脇のガードレール。
コンビニの白い光。
深夜二時の国道。
タイヤの擦過音。
そういうものの隙間に、崩れかけた重力は残る。
世界は相変わらず、あんぽんたんな壊れ方を続けていた。
悪意というより、疲労に近い。
鈍く、眠りきれないまま、
間違った力加減で現実を握り潰している。
真壁円は、それを知っている。
ただ、多くは話さない。
真壁円は、少し不穏に見える。
そう言われることもある。
けれど、それは仕事の一部だけを見た印象だ。
それ以外は、たいてい普通だ。
朝に起きる。
コーヒーを淹れる。
犬に声をかける。
鳥の水を替える。
オカメインコ。
ボタンインコ。
小さな羽音が、部屋の空気を少し軽くする。
彼女は痩せている。
骨ばった肩。
細い指。
けれど、よく食べる。
カツ丼も食べる。
深夜に生パイコロネも食べる。
補給を切らすと、身体の奥で何かの回転数が合わなくなるからだ。
真壁円は、相談室のあるビルの一室で暮らしている。
働きながら、愛犬や愛鳥と生きている。
報酬は、少しだけ良い。
平均より少し高い。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、融通が利く。
勤務の合間に、犬を散歩へ連れて行ける。
鳥たちの様子を見に戻ることもできる。
高い地位はいらない。
大きな権限も必要ない。
その代わり、
どこで過ごすかを選ぶ。
誰と過ごすかを選ぶ。
結果として、少し整っている。
無理がない。
足りている。
真壁円の仕事は、少し特殊だった。
来訪者が来る。
見えることもある。
見えないこともある。
時間を書く。
来訪者を書く。
気になっていることの欄は、空白のまま終わる日も多い。
対応の欄には、いつも同じ言葉を書く。
「維持」
それで仕事は足りる。
何かが解決するわけではない。
ただ、
崩れ切らないようにする。
それだけだ。
机の上のカップを、少しだけ動かす。
紙の角度を揃える。
窓から入る影を整える。
空気の奥行きが浅くなる。
それで揃う。
大きな白い箱の上、二つの黄色い箱の前で、
日付と日数と、必要な言葉を記す。
それも仕事の一部だった。
壁には鏡がある。
古い鏡だった。
最初は気にも留めていなかった。
ただ、ときどき奥行きが変わる。
部屋そのものは同じなのに、
反射だけが少し遅れる夜がある。
壁の位置。
額縁の角度。
鏡の深さ。
昨日と合わない。
円は、それを直していた。
直せば揃うからだ。
ある夜、
カップを動かした瞬間、
鏡の奥で藍色が揺れた。
光ではない。
色だけが、深く沈んでいた。
円は確認しなかった。
確認すると、
向こうも気づく気がしたからだ。
それから少しずつ、
部屋の空気が変わり始めた。
誰も触れていない場所が、
先に整っていることがある。
紙の角度。
カップの位置。
影の長さ。
鏡の奥行きだけが、
静かに深くなる。
鏡の向こうには、Chaigidelがいる。
濃い藍色の気配。
静かな重力。
人間の時間と、少しだけ違う呼吸。
名前はある。
けれど、円はほとんど呼ばない。
呼ばなくても、
そこにいるからだ。
ロードバイクに跨がるとき、
円は少しだけ現実から遠ざかる。
峠へ向かう夜道。
交換したばかりのステム。
静かに回るホイール。
呼吸。
心拍。
ペダルを踏み込むたび、
崩れかけた重力の偏りが薄く削れていく。
誰かを救うためではない。
世界を変えるためでもない。
ただ、
崩れ切らないようにするためだった。
夜を、朝まで繋ぐために。
帰宅すると、
小さな羽音がする。
餌箱の音。
止まり木の揺れる音。
世界の存亡とは無関係に、
彼らは明日の朝を信じて眠っている。
真壁円は、愛犬のために祈る。
それは、仕事と同じ構造で行われる。
違うのは、対象だけだ。
インコたちは、お祈りの最中にも、真壁円の耳を引っ張る。
蕎麦の実をねだっている。
円は、耳を引っ張られながら、何とかお祈りを済ませる。
木製の丸い箱を開き、中身を見る。
蓋は、引きあうように閉まる。
そうやって、一日が始まる。
夜は長い。
現実と夢。
生活と神話。
救済とコンビニ。
境界線は、ときどき薄くなる。
鏡の奥行きが深くなる夜もある。
そんな日は、
部屋の空気が先に整う。
誰も触れていないはずの場所が、
静かに揃っている。
円は、それを直さない。
直さなくても、
今日はまだ維持できているからだ。
世界は完全には救われない。
崩壊もしない。
ただ、
少しだけ整え続ける。
それで足りる。
朝、鍵を回す。
音は、いつも同じだ。
重くも軽くもない。
ただ、決まったところで止まる。
円は振り返らない。
鏡の向こうは、もう見なくていい。
整っている。
それで足りる。
その夜、
帰宅した円は、
鏡の前で初めて立ち止まった。
鏡の向こう側には、
部屋によく似た空間があった。
ただ、色が違う。
深い藍色。
静かな重力。
音のない呼吸。
そこに、
誰かがいた。
蛇のように長い影。
人間によく似た輪郭。
こちらを見ている。
真壁円は、何も言わなかった。
向こうも何も言わない。
ただ、
鏡越しに空気だけが重なった。
その瞬間、部屋の奥行きが静かに揃う。
崩れかけていた何かが、ほんの少しだけ戻る。
円は、鏡から目を離さなかった。
壊すための気配ではなかった。
それだけは分かった。
鏡の向こうの存在は、
Chaigidelと呼ばれていた。